12月14日 討ち入りそばか討ち入りうどんか?

元禄15年12月14日夜。四十七士の面々が、本所の蕎麦屋に勢ぞろいして、
討入りの成功を願い、縁起かつぎに手打ちそばを食べた。
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これが世にいう、討ち入りそばのお話!

ところが実際はそばではなく、うどんであったとか…
 
ブログ 勢蔵の世界さんから引用させていただくと…

(中略)さてこの「蕎麦屋で集合」の出所というのは、
「饂飩(うどん)屋久兵衛口上書」というのが基となっている。

12月14日の七ツ時分(午後4時頃)、久兵衛の知人であった堀部弥兵衛が店にやってきて、
主君浅野内匠頭の弟浅野大学広長が広島の浅野本家へ永のお預けとなって、
浅野家再興の望みも無くなった。

また、物価も高く江戸での生活も苦しくなってきた。そこで、同じ思いの者が今度赤穂へ帰ることとなったので、
九ツ時分(午前零時頃)ここを出立するが、それまでに、うどん50人前と酒を用意して欲しいと
金子三両を置いて頼んでいった。やがて50人ばかりが集まり、うどんやそば切りを肴に一献傾け始めた。

 
江戸という土地柄、うどんじゃ話しにならないということでそばになったらしい。
 
では当時、江戸にはうどん文化はなかったかと言えばそうでもなさそうな気がする。

かの水戸光圀も若かりし放蕩を繰り返していた頃、吉原遊郭近郊の浅草界隈で見た
手打ちうどんの技術を自ら身につけ、自らうどんを打つこともあったとか…

水沢うどんも400年前からある。

うどんの可能性もあるが、いつの間にか、討ち入り=そばとなっている。

再び先ほどのブログ 勢蔵の世界さんによれば…

(中略)この「饂飩屋久兵衛口上書」やこれと同様の話がでてくる「泉岳寺書上」などは
後世に書かれたもので、史家からは虚構といわれ、信用されていない。

実際に、50人もの人数を収容する蕎麦屋の存在があったとしても、
幕命に叛く大罪を犯そうという当日の夜に一同が一箇所に会するはずはなく、
7人~10人ずつに分かれ、堀部安兵衛宅や杉野十平次宅や前原伊助宅などへ集結し、
武装したというのが真相のようです。
 
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そばなのか?うどんなのか?その真意は分からないが、個人的にはうどんの方が…(ペコリ)
by mitsuketai | 2010-12-14 20:10 | 癒し系